20210828-29

Twitterでつぶやいたことがまとまりそう。

 

2012.04

帝京平成大学健康メディカル学部臨床心理学科入学

入学式には父が来てくれて、日本武道館だった。

帝京大学が午前中、アタシは午後だった。

式が終わってから、九段下のどっかで父と天丼を食べた。

もうブルーだった。

 

上京前に綺麗な金髪にしたけど、

怖くなって予備登校?の前に茶髪に染めた。

 

初回登校の日、池袋駅で迷子になったあたりからズレた。

立正大学落ちたところからズレ始めたんだと思う。

GWのころに、大学のイベント?で父が上京した。

「浜松町まで来れるか?昼飯を食べよう」みたいなメールに対して

「調子悪いから行けない、アパートにいる」みたいな返信をした。

アパートに来た父と、その日のうちに帰省した。

オークリーの緑のキャップ、買ってもらったばかりのエドウィンのデニムで帰った。

精一杯の強がりだったんだと思う。

 

5月末(6月末?)で除籍の申請をした。

自分が環境の変化に耐性がないことを知った。

心身薄弱(鬱手前)の診断。

睡眠障害が一番しんどかったと思う。

昼間はDVDを見る。

見終わったら寝る。

星とか月が「お前なんかいらない、死ね」って言ってたのが聞こえてた時期。

自分に合った睡眠薬が見つかったあたりで、自車校に通い始めた。

最初の適性検査はギリギリで合格だった。がっかりした。

それも結局辞めた。

 

父の誕生日、あたしが癇癪を起こして(心身不良で)両親と妹で出かけた。

急に死にたくなって母に電話にした。

「もう死ぬから」とか言った。

クローゼットの中にかかってた服?を首にかけたけど苦しいだけだった。

携帯を逆パコしたからみんなが引き返してきて、アタシをみつけた母が泣きながら抱きしめてくれた。

死ねなかった。

後日誕生日なのにごめんと謝ったアタシに父は何か言ってた。

二度とすんな、みたいなことだった気がする。

 

2013.04

結局心理学をやりたくて、尚絅学院大学院総合人間科学部人間心理学科入学

入学式は父が来てくれた。

帝京平成のときも父だった。

すでにブルーだった。

仙台を堪能することなく父を帰らせた。

 

1週間くらいホテル暮らしだった。

初めて仲良くなった「たくや」はいつの間にか退学した。

次に仲良くなった「こんの」も退学した。

「こんの」と一緒に居た「かいの」と仲良くなって、

次の取り巻きができた。今では疎遠になった。

そこからはあまり面白くない話だから割愛。

哲学への転向、箭内先生との出会いは今につながるけど。

大学の卒業式も父が来てくれた。

妹の大学の卒業式と日程が被ってたのに。

仙台駅でビールで乾杯して、天丼を食べた。

揚げ物で始まった挫折が、揚げ物で終わった。

 

 

中受をしないで公立中に進学してたら、の話を母としたことがある。

「盛岡三あたりに行って岩手大出て教員とか公務員とかだっただろうね」と母が言った。

だろうな、と思って「だろうね」と言った。

M1の頃だったと思う。

これについて父と話したことはない。

唯一、これに関連して父が言ったのは、

「大学教授か...俺もやりたかったな」だった。

あなたの方が適任だったと思う。

運の無かった父と能力のないアタシ。

神なんていないし、カルヴァンのいう予定調和もない。

父が大学教授になってたらアタシはいない。

たまに、それでよかったのに、と思うことがある。

そんなときだけ都合よく神みたいなものの存在を願ってみたりする。

 

父に何か見せられたのは修士の入学式だけだと思う。

いや、母にも何も見せれていない。

費用対効果、最悪。

 

いや、後悔を書き連ねる才能だけはあるらしい。

そして、やはりまとまらなかった。

まとめる才能は受け継げなかったらしい。

両親の説明はいつもわかりやすく、まとまったものだった。

かといって、何か他のことを受け継ぐことができたとも思えない。

ごめんなさい。これしかない。

 

 

D3最大の目標だった倫理学年報への投稿を諦めた夜に